今回のどうでもいい話は、ボルダリングの「楽しい」について、思っていることを少しだけ書いてみようと思います。念のためですが、ここでいうボルダリングはジムでのインドアクライミングではなく、岩登りのことです。
完登したときの写真や動画よりも、まだ登れていない課題の前で腕を組んでいる時間のほうが、実は私は好きだったりします。
ボルダリングの「楽しい」って、たいていは「登れた瞬間の達成感」が主役になりますよね。それはもちろん本当だと思いますし、否定する気もまったくありません。ただ、私にとっての一番の楽しさは、そこから少しズレたところにある気がしていて。それが「登れない」ことと、「何かに気づく」ことなんです。
わかりやすい楽しさ
完登ってわかりやすいですよね。核心を越えて、最後の一手をビタッと止めて、マントルを返して、岩の上に立つ。グレードという数字が積み上がっていく。強くなった実感がある。仲間とハイタッチする。全部いいと思います。この楽しさは間違いなく本物で、私自身、その気持ちはよくわかります。
ただ、私が一番ワクワクするのは、完登の一歩手前ですらなくて、「まったく歯が立たない課題」に出会った瞬間だったりします。触ってみて、びくともしない。今の自分ではどうやっても無理だとわかる。普通ならガッカリする場面かもしれません。でも、なぜかそこで嬉しくなってしまうんですよね(笑。
なぜ「登れない」が楽しいのか
登れない課題って、しばらく頭の中に住みついてくれるんです。シャワーを浴びているとき、電車に揺られているとき、布団の中で目を閉じたとき、勝手にあのムーブが再生される。この「占領されている感じ」が、私にはたまらなく豊かなんです。一撃で登れてしまう課題は、消費されて終わってしまう。でも登れない課題は、居座って、私をずっと考えさせ続けてくれる。
それに、登れないという事実は、ただの失敗じゃないと思っていて。「今の自分に何が足りないのか」を、正確に教えてくれる地図みたいなものなんですよね。指の力なのか、体幹なのか、股関節の柔らかさなのか、それとも度胸なのか。岩は嘘をつかない。登れないことは、自分の輪郭をくっきり見せてくれる気がします。
「気づき」という遊び
で、ここからが本題の「気づき」です。私がボルダリングで一番好きな瞬間は、完登そのものよりも、その手前にある小さな発見のほうだったりします。
「あ、ここでヒールを効かせれば、さっきまで届かなかった一手が変わるかも」 「腕で耐えるんじゃなくて、足に体を預けて脱力すればいいのか」 「問題は指じゃなくて、腰の位置だったのか」
この「あ、」が来た瞬間、体の中で何かがカチッとハマるんです。たとえ誰かに教わったベータでも、その気づき自体は自分の体を通してしか手に入らない。だから価値があるんだと思います。しかも気づきって積み重なるんですよね。ひとつの課題で得た発見が、別の課題でも効いてくる。私は完登の数を集めているんじゃなくて、この気づきを集めているのかもしれません。
そして一番深い気づきは、たぶん自分自身についてのものだったりします。すぐに力任せにいこうとする癖。思い通りにならないと苛立つ心。考えるより先に手が出てしまう性分。岩って、そういう自分をそのまま映してくるんですよね。
じゃあ、完登は?
「登れないのが楽しい」なら、登れたらもう楽しくないのか。そう言われそうですが、私にとっての完登はゴールというより通過点みたいなもので。少し名残惜しさを感じつつ、また次の「登れない」を探しにいく。それだけなんですよね。
登れないから、楽しい
この楽しみ方のいいところは、たぶん一生なくならないことなんですよね。登れない課題なんて、世界にいくらでもありますから。完登だけを追いかけていた頃の私は、登り終えるたびに次を探して、どこか落ち着かなかったけれど、「登れない」と「気づき」を楽しめると、岩の前に立っているだけで、もう楽しいんです。
難しさに打ちのめされること自体が楽しみなら、そもそも打ちのめされようがない…(笑。
なんて、これはボルダリングの話であると同時に、難しいものとどう付き合っていくか、という話でもあるのかもしれません。
以上、私にとっての「登れない」を楽しむどうでもいい話、でした(笑。



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